現代というのは昔以上に精神的に孤独な時代ですね。
それだけに孤独の救済を求める声が大きいのですが、それに応えるような現代的適応をキリスト教は十分にしていないという気がします。
ある意味ではそれを一生懸命やっておられるように感ずるのです。
しかし同時に、あまりに適応がすぎるとキリスト教がキリスト教でなくなってしまうのではないかという恐怖心もあって、これは永遠の課題なのかとも思うのですが、この点はどう考えたらいいのでしょうか。
そうでしょうか。
ぼくは、原則をもったうえで表現もしくは形式をずっと変化させてきたのがキリスト教の歴史だと思っていますけれどもね。
つまり、原始基督教団のキリスト信仰を体系的にまとめたのがポーロで、極端的ないい方をすると、キリスト教はポーロ神学であって必ずしもキリストの言葉ではないとさえいう人までいますね。